家族のこと

愛すべき存在

自分の口からこんな言葉が溢れる日が来ようとは!
生きていると何が起こるか分からない。KAMIWAZAかもね。

↑書くと長いし、もう自分の中で完全に終わって
書く気も起きないので、割愛。
聞かれれば何でも答えるけれど。
そのぐらい終わったということなんだと思う。

父・母・妹。

父には、男性性・女性性の話を重ねる。
母には、SelfAwarenessとSelfCompassionの話。
妹には、恐れ、そして対話の話を。

変えられるものを変える勇気を。
変えられないものを受け入れる寛容さを。
両者を見分ける賢さを。与えてください。

変えられるものは自分だけ。
父も母も妹も、変わってくれと思わない。

不器用で凸凹で分からないことだらけでも。
全部いいやと思う気持ちになった。
そのままでいてくれたらいいよって感じ。

投げやりに言っているのではなくて、
マルッと全部、受容な気持ちになった。
今・このまま、オッケーだよ。

でも、生き苦しさを感じることがあれば、
それは取り除かれたらいいなぁと思っている。

「生きてて良かった」と心から思うのは、
生きている間だけにできることだから笑。

ここ1−2年ぐらい、
いつかのどこかの誰かのために、が、
今ここ自分のために、になって
というか、してみて。

変化というものはおおよそ緩やかに起こって、
気がつかないうちに割と大きく変わっているのかもしれない。

自分の意思で舵を切ったことがあった・・・
そのことを思い出させてくれるくれるかのように、
時々思いがけない贈り物、ごほうびのように、
奇跡めいたことが届けられるようなことがあるような気がする。

・・・なーんて!
こんな風に、奇跡めいたことを予感させるようなことを書けば、
それをおねだりするような気分にもなって、うーん、気持ちの
純粋さがダウンしやしないかなぁと思ったりもするのだけれど笑。

でも、自分のためをやってみて。
前より優しくなったと思うし、
怒ったり他の口にしたくないような感情に出会ったり。
でも、それも単なるエネルギーの現れの一つだから
流れている方が自然だと思うし(流し方は勉強中)、
「自分の」「中にある」捻れに気付くきっかけになったり。

「いつかどこか誰か」ではなく、
「今ここ自分」は、
それもきっと類友だと思うし。

今ここ自分をしていたら、
前よりも自分で自分の感覚が好きだし、
大事なヒトモノコトをよりダイレクトに
素直に好きだ・大切だと感じられるようになった気がする。
半径5メートル、顔の見える人たちとの循環。巡り。

一番身近な存在って、何なんだと言えば、家族で。親で。
それは、存命でも他界でも、生き別れでも顔も知らなくても、
どんなに天涯孤独で生きてきた/生きているとしても、
自分がソロで無から発生することがない。

だから「まずは親のことを」「家族のことを」なんて。
読んだり聞いたりしても、そんなこと言ってたら、
人生始まる前に終わっちゃうよ!と思って考えないようにしてきたけれど。

昨日ふと、あー、自分を生きるとか、自分に集中するとか、
自分に尽くすとか、意識して過ごしたフェーズがあって。
何か、その延長線上、というか拡張された領域に、家族の話が
立ち上ってきたなぁと感じている。

今思ったのだけれど、この変化の様というのは不思議なもので
「親が云々」ということでなく、あくまで自分起点・自分中心、
極めてセルフィッシュな構図なので、引き続き私が勝手に取り組む、
そういう種類のものになる。誰でもなく、私が好きで勝手にやるだけ。

子供は親を選んで生きてくるとも聞く。
うーん、それは良く分からないけれど。

人に自慢できることも羨ましがられることも
何もない。(何も欲していないけれど笑。)

「家族」と呼ばれる両親と妹。
みんなが元気で生きている間に、自分がこういう気持ちになれたこと。
彼らとの時間が、取り敢えず今は与えられているのだということが、
私は本当にラッキーだなぁと思う。

取り敢えず、自分の思うことを変わらずに続けようと思う。

こういう風に自分が変化してこれたのは、たくさんの人が
支えて励まして知恵を貸して背中を見せて、くれたからです。
ありがとうございます。すべてのご縁に感謝です。

私が幸せでありますように。
あなたが幸せでありますように。
生きとし生けるものは幸せでありますように。

おしまい^^

うたかたの

新様式

この数ヶ月を振り返って。
具体的にはおおよそ2月から6月を中心とした上半期。

仕事が変わり、家で働くようになり、
仕事用に作業机が導入された。
未曾有の肌荒れ、からの、やむを得ないすっぴん生活、
(自分の名誉のために、眉毛は描いている)、
自粛が解除されても家から出る気が起きないほどだったのに、
解除の翌日ぐらいに、驚異的に回復した。

自炊が増えて快適なのと同時に、一時期、
日課が酒屋通いになっていることに気付き(散歩も続かない)、
自粛の副産物の一つにアル中の文字を見たとき、切実に悩んだ。
「飲むと飲めるようになる/強くなる」と聞くことがあるが、
私は最近、滅法弱くなった。酔うし残る。コスパが良くなった。
持続可能な飲酒ライフを目指して、適度な自粛を目指したいと思う。

生活にトリを迎えた。身体が檸檬。目が柘榴。2月生まれのインコ。
大人と暮らしたことはあっても、子供を持ったことはないが、
こんな気持ちなのかなぁとちょっと思ったりする。

不憫な思いをさせたくないとか、お腹を空かせて欲しくないとか。
ずっと無邪気でいてほしい、したいことをしてほしい、新しい挑戦とか、
勇気を出したりして、自分の中にある可能性をたくさん知ってほしい。
とか、思う。30数グラムの生き物が、私に見せてくれる私。

この人(トリです)を残して、死にたくないなぁとか。
*インコの寿命は、10−12年ぐらいとのことで(思っていたより長かった!
7−8年と思っていた)平均寿命からすると、私の方が長生きする可能性が
割と高いです。

でも、これは、子供っていうより、恋人みたいな気分で、相手を残して
死ぬより、自分が1日以上長生きしたいなぁという、そういう気分の気分。

これは、なんというか、ハードとしての暮らしのデザイン。


自分の中身というか、取り組みというかは、カラフルで過渡感が強い。
人生って常にon goingなプロセスでしかないから、過渡以外の何物でもないのだけれど、
今回の一件をさておいて、気分の変化?自分の組立?を割と切実に感じている。

一言で言ったら、今の私はすごくアンバランスで、フラットというかリセットを欲している。

インプットとアウトプットのバランス。
自と他とのバランス。
緩急のバランス。

インプットからアウトプットの過程(要するに自分の内的処理)が変わってきた気がして。
それに伴って、アウトプットの仕方や在り方みたいなものについて、思いを巡らせている
時間が今は長いように思う。

はっきり言って、私が思いを巡らせているのなんて、休むに似たりで、世の中が刻々と
加速度的に変化の速度を速め続ける中にあって、リスクだなーとも、もちろん思う。

だから、リソースの一部は、自分の一番の趣味趣向に抗って割く必要があると思っていて、
小さいサイクルを、たくさん、はやく、やる、ということをやる必要があるなと思っている。

一方で、とにかく飽きずに考え続ける・・・ということは、私自身の良くも悪くも特性の一つだと
受け入れることにしたので、それはそれとして、生きている間、続けていくことになると思う。

ちょうど1年前に、15年越しの答えがふと得られたことも印象的だ。
あー、心のどこかに置いて気にかけていると、こんな風に突然答えが得られることがあるんだと、
別に内容そのものは感動的なものでなかったのだが、その奇跡に感動した。

長く考えて見えてくるもの、得た刺激が年を重ねて熟れて自分に馴染んでくること、
そういうことどもこそが、生きながらえていることの醍醐味のようにも思うので
(こういうことを言うと、自分も順調に年を重ねていることを実感するよね笑。
順調って、みんなと同じペースで、と言うだけのことで、long&winding、
そしてbumpy、時にmuddy、なんでも良いんだけど。着々と、ならいいか)、
とりあえず、こんな調子も1ライン保ちながら、いきたいと思う。

発信が大事、と言うことは良く分かる。
一方で、既存の、と言うか、一般的な、と言うか、思いつくような、と言うか、
何かそれを超えた伝達を見てみたい、と言う気持ちがどこかにあることを知っている。

「見たい」というそれ自体がエゴで、例え見えなかったとしても、今ここで、
すでに起こっていることなのかもしれない。気配や残り香のようなもので。

と、ここまで書いてちょっとスッキリした。
割と結構、スッキリした。

死ぬまでにやりたいこと、というか。
死ぬまでやりたいこと、というか。
言葉遊びをするつもりはないが、
何となく自分の中ではこの二つに、今、区分けがされて、スッキリした。
前者はoptionalで、後者がessentialだよね。

あと、人は変化し続けるから、見直し・手入れが欠かせない。
私は今、自分的緩急の立て直しが喫緊の課題で。主に仕事。

同じことをしていても、それは今回の一件で舞台装置が一変したということとは別に、
自分の心地が、引き返せないぐらい変わってしまった。
これまでは生きるためにパンを得ていたが、今はパンのために生きている気分。
別に、対象物が悪いのではなくて、単純に私が変わってしまったというだけのこと。

「これ」という一点に出会った時に、他の全てが色褪せてしまうという経験が、
過去に一度あったことを明確に記憶しているけれど。
それはもう、本当に残酷で、何も悪くない。誰も悪くない。
嫌なことがあったのでもない。それすらない。嫌いより残酷な、無関心。

好きとか嫌いとかを超えて、どーでも良くなってしまうという、自分の中に
制御不能な爆弾を抱えているということを、自分が一番知っている。
私は、それは、怖いな。いつ発動されるか分からないから。ちょっと寂しい。

でも、仕方なくて。
保守に手間のかかる上に、爆弾まで抱えた、私という存在を、
これまで以上に、丸ごと引き受けてやっていくしかない。

ずいぶん昔の本だけれど、エッセンシャル思考。
ドラッカーがチクセントミハイのインタビューのオファーを断ったエピソードが好きだ。(p.169)
久々に本で確認したので、自分の備忘のために書いておこうと思った。

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今の自分を簡潔に描写すると*全然一部だけれど、自分の思考の整理
・平日の朝にラジオ
・週末の朝にラジオ
・毎朝、自分のコーヒーを淹れてから、トリの世話(水と餌と敷紙の交換)
・月1回30分、ラジオ講座(宗教)
・週の後半、ラジオ講座(英語)

・健康ブログ
・もうちょっと発信するブログ

・場1(参加)
・場2(運営)
他のさまざまなgentle tieds

・活動(〜6月)
主客のバランスを模索
・活動(7月〜)
多分一旦、少し自分に集中

==============

鳥との暮らし

楽しくね!


トリと暮らして1ヶ月半が経つ。早いなぁ。
思いがけず鳥用のおもちゃを買ったりしてしまって、
ネコ可愛がりだなぁと我ながら呆れる。

見ていて飽きない。

朝は、水を替えてやるまで口をつけない。
(違いの分かるトリ笑。あるいは飼い主に似て繊細?)
餌よりも、水の方にこだわりがあるらしい。
(それでも、びっくりするほど食べる。ついばむというより、
ほんとかなりグイグイ食べる。私も負けないように食べないと!)

朝のひと時、ひとしきり、食べたり飲んだりすると、
ケージの中でぐるぐる遊んでいる。

それにも飽きてくると
可愛くない声で鳴いて、外に出たいアピールをする。
トビラを開けてやると、出たり入ったり、ケージによじ登ったり、
開けたトビラに宙吊りになったりして、小さく冒険している。

適当にケージに戻してやると、頭をかいたり、毛づくろいをしたりして。
気がつくと得意の薄眼と片足立ちで、ボヨーッと弛緩してまどろんでいる。
何となく10時半ぐらいが、昼寝の時間らしい。

すぐに復活して、またぐるぐる遊んでいる。
あとは、食べて遊んでまどろんで。
ジェージェー言って(可愛くない声)、冒険して。
毛づくろいして、まどろんで(15時半ぐらいの昼寝)。

そんなことの繰り返しだ。

それでも、毎日可愛いなぁと思う。
子供の頃から何羽かトリと暮らしてきたけれど
(セキセイインコ専門)、こんなによく動くトリは初めて見た。

イナバウアーを超える反り(あだ名がシャチホコ)、
トリ用ブランコで宙返り(鉄棒状態)、
止まり木から落下&着地(猫もびっくりの鮮やかさ)。

「ドスッ」とか「ボサッ」とか聞こえるたびに、私は仰天するよ。
そして肉体って、けっこう頑丈にできてるんだなぁと驚く。

生身の子供って、こんな感じなのかなぁと思ったりもする。
そして、トリでこんなにビックリしているんだから(死ぬんじゃないかと思う)、
人間の子供を育てようとしたら、私は命がいくつあっても足りないかもしれない。

何にせよ、同じことの繰り返しのような中に、成長を感じたりする。
新しい遊びを見つけたなーとか、前より体の使い方うまくなったなーとか。

ブランコに飛び移るのに、50回ぐらいバタバタやって勢いつけて、
ジャンプしていたのに(注:バタバタは、何の意味もない)、
そんなにしなくても飛び移れることが分かって、しなくなってしまった。
そんな成長が、ちょっとうれしくて、ちょっと寂しい。

今回のおもちゃ投入は、毎日同じブランコ相手だと飽きるかなぁと思って、
新しい刺激を投入してみた感じだ。様子を見つつ、地味にゴソゴソ遊んでいる。

この人(トリ)を見ていると、ただただ幸せを祈ってしまう。無償の愛♡
だって彼に尽くしたって、私には何か見返りがあるということはないよね笑。
(一緒にいるというご縁が、すでに全部なのだけど。)

日が暮れると「今日も一日、楽しかった?」と何となく気持ちを送るのだけれど、
たくさん遊んで、楽しくいてほしいなぁと、心から思っているのだなぁと思う。

時々こっちの都合で遊びに誘っても、「今じゃないし」と噛み付いてくるし、
かと思えば、ケージの蓋に飛びついてきてネコなで声でアピールすることもある。

いろんな遊びを遊びたいなら「もっと遊んでほしいなぁ」と思うし、
眠そうにしていたら、そっとしておくし。
ほんと、ただひたすら好きに生きて欲しくて、したいことを尊重したい気持ちになる。

神様って、こんな気持ちなのかなぁと、ふと思ったりする(唐突)。
愛だよ、愛。愛ってこういうことかもしれないと、あらためて思う。

何をしていても可愛くて。
同じことを繰り返していても可愛くて。
何をしてもしなくても可愛くて。
何もしてくれなくても可愛くて。
「楽しくね」「好きにしてね」「幸せにね」ということだけを、ただ思っている。

この人(トリ)ともいつか別れが来ると思うと、本当に寂しい。想像して、今から泣ける。
だから、生きている間、本当に好きなことをして生きて欲しいと思う。

野鳥ではなくて、ネコの額のような?ウサギ小屋のような?
タイニールームのステンレスケージの中が彼の世界なのだけれど、
その中でできるだけ、楽しい気持ちで無邪気にいて欲しいと思う。

神様が人に向けて思うことって、そんなようなことなのかもしれないと思う。
どこに生まれたから良い悪いとか、どんな境遇だから良い悪いとか。
どっちがどうだから好きだったりそうじゃなかったりするとか。
当たり前だけど、そういうのなくて。

何をしていてもどこにいても、ほんとうに、ただただ、
みんなのことを可愛いなぁ、大好きだよ、と思っているような気がするんだ。

大丈夫。大丈夫だから、生きている間に、好きな経験をたくさんしてね。
という気持ちになる。私の心が優しくなるような気がする。
毎日そんな気持ちを味わえることがほんとうに幸せだなぁと思う。
トリ、ありがとう。

そうか、そうだったのか

私は、傷付いていて
拗ねていじけて。
それで怒っていたのか。
なーーーんだ^^


沸点低めで、割とキレ気味。
正義感が強いと言えば聞こえがいいけれど、
喧嘩っ早くて、正論で押し勝ち。
私は元々、ものすごく気が強い。

別に喧嘩をふっかけたい訳ではないし、
もちろん喧嘩を買いに行きたい訳でもない。

でも、最近、いろんなことへの怒りというか、
釈然としなさに荒ぶる自分が出てくることに
ちょっと戸惑っていた。

困るなー。本音出す=切れキャラは、
私の本当でもないし、望みもしない。


学生時代の男友達と話をした。
勇気・謙虚さ・賢さ、全部を持った
本当に素晴らしいリーダーだと思う。

話している最中に、私はものすごく腹が立ってきた。
もちろん彼に対してではないし、自分に対してでもなくて。
言いたくないが、あんなことやこんなこと、あちらこちらに
妙に怒りが湧いてきた。

声を荒げたくもないし、何かを悪くも言いたくない。
でも、それを押し殺して伝えようとすれば、
ただただ歯切れが悪くなってしまう。

話の方向性は同じなのに、どうして私は怒り混じりで、
相手は怒らないでいられるのだろう?不思議だった。

終わってから、ふと思った。
あー、私は、すごく傷付いていたんだ。
何というか、悔しかった?
あ、話し相手に対してではなく、
昔の自分の気持ちを思い出した。

とある情景が思い浮かんだ。

その時に、自分に感じた無力さや、
自分がないがしろにされたという気持ち。
自分がその場にいないように扱われた寂しさ。

言わせてもらえなかった悔しさ、
飲み込んだ言葉の燃えかす、
もうどうでもいいという投げやりな気持ち。

そーいうコトドモがオエっと出てきた。
要するに、一言で言ったら、
私が過去の自分を、拗らせていただけた。

昨今、男性性とか女性性とか、そういうトピックが
身近でよく話題に上がる。

話す相手は男性だったり女性だったりするのだけれど、
・・・私が安心して話せる相手で思い浮かぶ男性陣は、
すごく器が大きいと思う。切れる姿が思い浮かばない。
(度量があるのみならず、easy goingだとも思う。)

前述の男子
昔の上司のIさん
会社辞めたての頃からのご縁のUさん

・・・怒らないよ。
いや、怒るかもしれないけれど、
私のようにせせこましいところでごにょごにょ言わない。
・・・そんなのカッコ悪いし!

じゃ、私も、カッコ悪いのは嫌なんだよね。
・・・でもやっちゃうのは何で?何で?何で?

という訳で、WHYを3回ぐらいやってみて
出てきた気持ちが、「寂しかった」「悔しかった」。
何だよ今さら。前から言ってるじゃん。
馬鹿らしさ、アホくささ。怒り、憤り、遣る瀬無さ・・・
で、心の奥に封印していた拗らせた気持ちが浮上して、
でも出し方を知らないから不機嫌になってみたんだね。

だってさ。
要するに、私は傷付いたんだね。
はーーー、スッキリ*\(^o^)/*

しばらくは慣れていないことをするから、
ぎこちなくてヘボい感じになるだろうと思う。
あとは、過去の負債(傷を癒すとか、行動の慣性とか)が
あるから、ムーーーとか少し続くのだろうと思う。
でも、返済と筋トレで、前に進もうと思う。

「いろんなもの、見たの?」
見たよ。見たよ。
君とはきっと全然被らない世界を、
私はあれこれ見てきたのだろうと思うよ。

両方合わせて浮かび上がるものもあるかもね。
私も、かりそめの優しさで受け流すのでもなく、
ぶった切って焼き尽くすような激しさでもなく。

またここから前に進んでいくために、
新しい気持ちで絵を描くこと。
素直で建設的な気持ちを出せるようにしたい。

私だって、怒りを知ってほしい訳ではない。
そんな時代は終わったというか、
それは自分の対応範囲だと思う。

私にとって、もちろん憤りはゴールではないから、
辿り着きたい場所にたどり辿り着くことにただ集中しようと思う。
そのために、練習と実践を繰り返して行きたいと思う。

なんか、現実がいきなり変わることはないけれど、
ずいぶんスッキリした気持ちです。

あんころ時報_#6

もっと素直に

4月の末ぐらいから、気分に変化が生まれてきた。

「飽きた」
飽きた・飽きた・飽きた
飽きちゃったんだヨーーー!

普段(もう、普段とか普通とか、「普」という文字も
その意味を表し切れない昨今・・・以前?)だったら
しないだろうに、わざわざオンラインで人を捕まえて
「ねぇねぇ、・・・飽きちゃった^o^/~」と言ってみた。
捕獲され・付き合ってくれた人へ、ありがとう。

今朝も、目覚めた感謝の次の瞬間、
あーあ、飽きちゃった、とちょっと浮かんだ。
・・・でも、違和感。だって、この状況、飽きる?

こんなに全てが新世界で、飽きてる暇はないよね。
新しいことだらけ、創造の余地だらけ。

外に出られなくて、疲れちゃったよ。
運動不足で、だるいよ。
刺激が足りなくて、単調だよ。

どれも、まぁ、その通りなのだけれど、

私は、人に会えないことが寂しい。
人に会いたい。場所に行きたい。

「飽きちゃった」なんていうのは、精一杯の虚勢で、
ほんとうは、人と集えなくて、私は、とても寂しい。
というのが、ノイズやまやかしを外した、裸の声。


動画かラジオか。
ケースバイケースだけれど、私はラジオが好き。
動画は、too much informationなのかな。

配信されてる動画を見るのと、ビデオシステムで繋がった状態とでは、
同じ動画でも含んでいる情報の種類がまた違うけれど。
あーーー、もしかしたら、クレンジング前のビッグデータのような
有様なのかもしれないな。

その点で、音だけだと、ごまかしがきかないというか、
ものすごくエッセンシャルでリーンなデータというか、
人は視覚で9割の情報を採っているというけれど、
音か動画か、というか、視覚情報を遮断することによって、
内容それ自体によりフォーカスできるのかもしれない。

少しずれるが、「音」に情報伝達を絞るということは、
相対的にその音の質の影響が爆上がりになるのかと思う。
(視覚:聴覚=9:1の時、1の中でどれだけ品質を上げてしても、
そもそも9に凌駕されてしまうから。)

ここではラジオ想定なので、音を「声」に特定して話すと、
声って、とても正直なものだと思う。

中高の歌の恩師は発声のことを「自分自身の人間楽器を響かせる」と
表現していたけれど、声は、自分自身の響きそのものなのだと思う。
声紋という言葉もあるぐらい、世界にたった一つしかない人間楽器。

コンテンツが同じ、内容が一言一句同じだったとしても、
それが何を通じてデリバーされるかということで、放つ色合いが
全く別のものになって行くような気がする。

人体の6−7割は水でできていて、水はその響きを記憶し変化する。
届けられる音の伝達経路は、音の質へ必ず影響すると思う。
コンテンツを放つ「人」もっと言ったら「媒介」の質がより
重要度を高めるようになるのかなぁ、と。

奇抜に聞こえるかもしれないが、音は、波に過ぎないので、
「意味を伝える」ということも一種の幻想で、できることは
「意図を放つ」ようなこと・・・静かな湖面に小石を投げるに似て、
広がりの起点を作るようなものなのかもしれない。

そう。小石と湖面は、流れで書いたことだけれど。
私が、人と集いたいと思う気持ちの一番の理由はここかもしれない。

情報の伝達網は、本当に素晴らしいと思う。
ただ、どれだけ瞬時に伝わることを可能にしても、
それは「直」ではなく、どうしても「経由」。

もちろん、人と人とが集ったって、皮膚で区切られた細胞の震えが、
空気を介して響き合うもので、経由と呼べば経由。

それでも、01に変換されたものが送信されて、再度像を結ぶのとは
やはり伝わる情報の質が違うと思うのだ。

人の飽くなき探求心、技術への向学心、そういうものが、
どこまでもフロントを押し上げ続ける。
人は頑張るし、やろうと思えば(そしてやりたいと思う人が実際いるから)、
ARでも頭にチップを埋め込むでも、想像を超えたいろんな方法でもって、
ここで言ったら、データ再統合の質的変容を最小限に止める技術の開発を
目指したり、そういう方向で穴を埋めようとして行くのかもしれない。

でも、5Gになったから5Gのデータ送信の限界に迫って、
5Gを使えということを別にしなくても良くて(これは例えが微妙で、
実際はそこにチョイスはなく、嫌が応にも巻き込まれて、諦念と共に
その不可逆さに「良く」順応することを目指すようになるのだけれど)、
「程良い」「心地良い」着地点を探ることは必要だと思うし、

オーガニックな活動を、何でもかんでも人智人力を尽くして技術に
置き換えて行こうとする試みが、真に人を幸せにするのか分からない。

そんなこんなで、人に会いたいし、場を訪れたい。
その時空に包まれた記憶は、それこそ身体全体に記録されるのだ。

一期一会。
今この瞬間、オンラインで誰とでも繋がれる。
でもやっぱり時空に浸って、今を味わいたい。

日光浴も海水浴そうだけれど、音浴と色浴。
治療というか、心身のリトリート「整える」
治癒の時空みたいなもの・・・ねー。


日常に小鳥が加わった。
全身真っ黄色で、目がガーネットみたいな赤。

こんな色鮮やかなものが部屋にいたら
ちょっと落ち着かないんじゃないかと思ったけれど、
そんなこと全然なかった。

まだ2.5日ぐらいしか一緒に過ごしていないのに、
あー、個性ってあるんだなぁと思って面白い。

着いたその日は、シュッとした後ろ姿でケージデビューした後、
ストレッチと痒いのと寝たふりの繰り返しで、大人し目だった。

すっごい気まぐれだ。
食にはこだわりがありそうだ。そして、朝からよく食べる。
私も食べなくちゃなぁと思わされるぐらい、食べている。
ちゃんと水も飲んで、で、もう一度餌を食べている。
三角食べを思わせる、ヘルシーな印象だ。良い良い。

今は、寝ている。
眼がトロンとなって、体がボヨンとしている。
そして、意味不明に片足で止まり木に止まっている。
右足で止まるのと、左足で止まるのと、地味に入れ替えている。
しかも、途中途中、アキレス腱伸ばしのように後ろに伸ばしたり、
手をグーにするように縮めたりしている。
ウトウトしながら片足って、別に好きにしてくれたらいいけど、
こっちとしては疲れないのかなー、寝ぼけてるのかなーという感じ。

時々、外で鳥が鳴けば、それに応えたりもしている。お友達だね。
鳥かごの鳥は外の世界で生きてはいけないと知っているし、
かと言って鳥かごの中で生きることが彼にとっての幸せかも分からない。

でも、袖擦り合うも他生の縁。
数えきれない命の中から、特別ご縁をいただいた命なのだから、
相手を尊重して、お互いのペースで、静かに過ごしてみたい。

彼の自由で気ままな振る舞いに、私は何を思うのだろう。
本当に小さい。30数グラム。それでも、重さがあって。
柔らかくて、鳥の匂いがして、心臓が脈打っていて、温かい。
私たちは今こうして生きているねと、当たり前のことに感謝する。

あんころ時報_#5

けっきょくおなじみの着地

私は普段、
はっきりある言いたいことを、
出来るだけ不明瞭に書くのが好き。

でも、これは何となく、
煙に巻かずに
書いてみたいと思う。

COVIT-19を前に、
勝つとか負けるとか、
そういう表現は止めて欲しい。
耐えるとか生き残るとか、
そういう表現も避けたい。

この後に及んでなお、
世界観が古いと思う。

私たちは、思っている以上に、
言葉に雰囲気を持っていかれる。

私たちが生きたいのは、
勝ち負けの世界なのか?
サバイヴする対象物を鏡に
生活全体を語りたいのか?

もちろん、私にだって
分かることがある。

食べるものがなければ不安だし、
寝る場所がないと思えば不安だ。

こっちもあっちも汚染。
見えても見えなくても汚染。

そうしてイメージすれば、
瞬時に心身が萎えるのが分かる。

でも仮に、これまで通りの方法で
食べられて寝られることを、
我々は「勝ち」と呼ぶのか?

あるいは、共通の敵を打ち立てて、
そちらに目線を合わせて一枚岩となること。
それが今拾える唯一ポジティブな解なのか?

落ち着いて思考することが、
時に難しいこともある。

考えなくても良いのかもしれない。
目を瞑って。静かに呼吸をする。
ひとつ・ふたつ・みっつ。

・・・私たちは、
何かに勝ちたかったのか?
これまでも、これからも。

この書き方はよくないかもしれない。
(そうではない)と言わせる無言の圧力。

私は人よりずいぶん、言葉に厳しい。
厳しいというか、とても好きだから
メッシュを目一杯にして振るう。

なので、勝つと負けるは使わないし、
耐えるも生き残るも使いたくない。

一万歩譲って、勝ち負けを使うのであれば、
「負けるが勝ち」なら甘んじて受け入れようか。

それが本当に本当にどん底だったとしても、
生きて新しい世界へのスタート地点に立った。

新しい景色に向けていち早く駆け出せる。
そうして祝福を送ったって良いじゃないか。

もちろんこれまでの延長からシフトチェンジ、
ピボットできたら、それも素晴らしい。

舞台装置が総とっかえになった今、
1mmも変わらず「これまで通り」にあるとしたら。

老舗の味は、たゆまず微かな調整を重ねることで、
そのスタンダードが保たれているというのと真逆で、
気付いた時には置き去りにされているのかもしれない。

*でも、世界はそんなに冷たい場所ではないので、
置き去りになんかしないからね!これは言葉のあや。

負けるよりも、耐えきれないよりも、怖いことがある。
そちらに目を奪われている間に、大切なことを見落とすこと。

何かを隠されるとか、何かをどうこうされるのではない。
誰のせいでもなく、私たちは自分で思っているよりもずっと、
自分の大切を、いとも簡単に見失う愚かな生き物なのだ。
ただそれだけ。自分を縛るのは、いつも自分だ。

いろいろ言ってきたけれど、何でしょうね。
私も、いろんなことをすぐに忘れるから。
すぐに思い浮かべられる景色を一つ、描いておこうかなぁ。

長縄跳びでギネスに挑戦、みたいな気持ちかな笑。
これだと勝ち負けがないでしょ?
みんなで、一つでもフロントを押し上げる。

回数の多さは、まぁそれはそれとして、
新時代の長縄跳びは、どんななんだろうね。
人数の多さなのか、年齢の幅の広さなのか、
飛び方のユニークさ?紐へのこだわり?
(どんな紐でどう飛ぶのか、全然思い浮かばないけれど笑!)

何でも良いけれど、楽しく続けられればよくて、
一人ではできないことだけが確か。
あ、考えてなかったけれど、濃厚接触だね笑!

あーーーあ!早くみんなで、外で遊びたいなぁ。

一人一人が、変化に挑戦中。
環境が未知だから、全員にとって初挑戦!
世界中の老若男女のみんなが、平たく初心者!

こんな機会、とりあえずないよね!

何を目指しても、何を思っても、
一人一人の挑戦の旅路が守られ、
素晴らしいものでありますように!

あ!百花繚乱も描いておこう。
みんながこれまで隠し持っていた無数の種が、
これでもかと芽吹いて咲き乱れる景色を見たい!

あんころ時報_#4

懐かしい匂いがした

朝の太陽の匂い
朝の草の匂い
あぁ栗林の匂いだ

匂いは記憶を呼び起こさせてくれる。

2歳9ヶ月年の離れた妹がいる。
それがどのぐらいの期間だったのか全く分からないけれど、
妹が生まれる前のしばらくの間、
横浜の祖父母の家で父と二人、お世話になっていた。
父は、夜仕事をしていたので、朝早く帰ってきてから、
家の前の栗林で、遊んだ。その匂いがしたのだ。
(今から思うと贅沢な空間。あれは、何だったんだろう?)
言いたくないけれど、35年前の記憶。

あぁ、初めてのCアナウンスから早くも3ヶ月が経とうとしている。
世界のあちこちで、それぞれの対策を積極的に採るようになって、
2ヶ月ぐらいなのだろうか。東京でも、およそ1ヶ月が経つ。
この不思議な暮らしは、時空が歪む。早いのか長いのか分からない。

人が鳴りを潜めるのと反比例して、自然が元気になっていると聞く。
それは、相対的に元気に映るのか、絶対的に元気を増しているのか。
いずれにしても、それが今このアンコロでの最適バランスということだ。

35年前、1980年代の半ば・・・
戦後40年、オリンピック〜いざなぎ景気(1964〜1970年)から15年。
Japan as Number One が1979年、Comebackが1984年。
そうか、そういう時代だったのか。おっけー。
少なくとも今朝の東京は、35年前と同じような匂いがしたよ。


BTW

最近再会した曲がある。
USA for Africaとして発表されたキャンペーン・ソング。
1985年だったそうだ。その約5年後に冷戦が終結。
私は、自分が生きている時代を感じるのが下手だと思う。
振り返ることで、それが何だったのかを反芻する。

うんうん、良い歌だよね。
聞いていて泣けるし、歌って泣ける。
一人一人が歌う姿を見ても、泣ける。

あー。奇しくも35年前なのか。
今聞いても泣ける歌。
We are the ones who makes a brighter day
So let’s start giving
There’s a choice we are making
We’re saving our own lives
It’s true we’ll make a better day
Just you and me

この35年間、人が積み重ねてきた選択の結果が今。
35年前の今日より、より明るい、より良い、日に
・・・なっているかな?

これは、決して皮肉な投げかけではない。
この歌が心に響いて涙を流す人は私一人ではないだろう。

私は、それを、みんなの心の中に、愛を希求する気持ちが
共通してある、ということの表れだと素直にうれしく思う。

でもここで一つ、トリッキーな気持ちが浮かぶ。
「愛を求める気持ち」がある。そう。
私たちは、愛を求めたいし、愛を感じたいんだ。

そういう意味では、35年前と同じ気持ちで
「私たちはみんな、世界/地球の子供だ」と
歌うことは、人類共通の願いが叶っているように思う。

でも・・・何なんだろう?この違和感は!
私は、みんなが、この歌を歌わなくて良いぐらい、
愛を未来に実現するものではなく、愛に満ちていると
感じられる世界に、来て欲しいと思うんだよ!

・・・あ、そっか。
今、ここ、この瞬間が、そもそも愛なんだと、
みんな思えば、というか思い出せばよいと思う。

ヒトってバカだなーと、最近つくづく思う。
もちろん、自分も、同じようなしょーもない勘違いとか、
うっかりとか、小さい過ちとか、いくらでも重ねる。

人間総出で、大掛かりに壮大な間違いを演出することもある。
しかも、一度ならず、二度でも三度でも!でも、それが人間!
賢いのかバカなのか分からないなぁと、一員ながら呆れる笑。

でも、それこそが愛のようにも思えてくる。愚かさも愛おしい。
こんなにもあの手この手で残念案件を重ねてばかりの生き物を、
全部受け止めてくれる、この世界の何と寛大なことよ!

生きているのではなく、生かされている。
「生きている」とは、私にとって死ぬまでの期間の呼び名。
生かされている間は、生きてすることがあるのだと思うから、
その間は、分からないなりにも、精一杯生きたいと決めている。

そう。今この瞬間を感じていること、生のあることこそ、
愛の証なのだという感覚を、すっごい忘れがちだけれど、
この手に取り戻してみてはどうだろうか。

じゃ、「死んだら愛じゃなくなるのか」?
それは違うよ。生きても愛、死んでも愛なのだと思う。
結局どっちでも良いのだから、それはそういうものとして、
あんまり気にしないで、ただ今ここにあれば良いのだと思う。


われわれは
どこから来たのか
何者で
どこへ行くのか

久々に出会った。
その次の瞬間、

どこからも来ないし
何者でもないし
どこへも行かないよ

と浮かんだのだけれど。
自分、さすがにそれは
ちょっと投げやりすぎじゃないかね笑

AnywhereかSomewhereか。
はたまたNowhereか?
あるいは・・・Dead End?

どれでもないし、
どれでも良い。

Now here。

私たちにあるのは、
これまでもこれからも
「今、ここ」だけなのだ。

例え目に映る景色がどれだけ変わっても、
生命が存在することの真理や普遍は、
これまでもこれからも、何も変わらない。

当たり前のことなのだけれど、
あらためて考えてみると、
ちょっとホッとする。

この世界が在るということ
それそのものが愛だったのだから
求めるものでも失われるものでも
ない。ただそれだけのことだった。

あんころ時報_#3

不思議な体験


(26)
up and down
inside out
which is which
and vice versa

買い物に出た
マ○クなしで
OMG!

いや。。。
飲み過ぎていたとは言わないけれど、
一息ついて気が抜けて、
慌てて買い物に出かけた。
近所のスーパーも営業時間短縮。

終わってしまうよと思って
1955小走りで家を出たよ。
2000閉店と思って焦ったのに
まさかの22時まで!気が抜けた。

途端に気がついた。
あ、私マ○クしてないじゃん!!
NOマ○クで、密空間に突入。

・・・何とも言えない
自分の心の葛藤。

自分はこれまで、バラマキ防止に
してきたつもりで慣れていたけれど、
いざマ○クなしで飛び込むと、
「え、この一吸気で汚染の可能も
あるんだ」と呼吸を過剰に意識していて。

あー、見えないものに、私もすっかり
気持ちを持って行かれているんだなぁと。
アンコロの一員であることを実感した!

世界で一番可愛いマスクを入手したため、
着用そのものはウキウキなのだけれど、
煩わしいし、相手の表情が見えないのも
とても寂しく、少し不安だ。

そういう方面に全く靡かないな私ですら
こんな風に神経質になっているのだから、
常に飛びつく何かを求めて止まない人たちを
揺動することなんて、赤子の首を何とやら。


(28)
「飽きた」
初めて言ってしまったから、
今日がわたしのC記念日♡

体調とかもあったのかもだけど
(自分で別にそんなに気にしてみたことがなかったけれど、
人と暮らせば、相手の目には火を見るよりも明らからしい。)

気が立っていたのか、
もう、飽きたよ。
飽きた・飽きた・飽きた。

人を捕まえて愚痴ってもみた。
(オンライン捕獲。)
ねぇねぇ、飽きちゃったんだけど。

でも、一方で、
飽きない工夫をあんまりしていない。
外出自粛(出ない)一択になっていて、
自転車で距離を伸ばすとか、


(29)
最近、とにかくお腹が空く。
空くのみならず、鳴るよ笑。
こんなこと生まれて初めてで、
人体の不思議を感じている。

最近、前より暴言も吐く。
私の吐く暴言なんて、
たかが知れているだけれど笑。
「もーーーっ!」という頻度が
上がって、力がアップした位。

でも、あー、何か生きてるんだなぁと思う。
身体も感覚しているし、
気持ちも感覚しているし、
素直で開いている感じがする。
そういう意味で、感度増しな気分。

増したと言うか、戻ったんだよね。
だって、丸腰で全開で全感知だと、
・・・死んじゃうよ爆!

人間ってうまくできてると思う。

若い・幼い頃にできる対処。
幼さ故の拗らせ勘違い引きずり、
・・・しようがないよ。

一方で治癒力も高い。
虫刺されもも肌荒れも火傷も
だいたいすぐ治る。

年を重ねてきて、
あー、図図しくなったとか、
太くなった(それでも細いけど)とか、
ちょっとぐらい年の功のような
ギフトがあってもよかろう。

あ、今、自分、自分に嘘ついた。
もやっとしたけど、見逃した。
今はさらっと受け流したけど・・・
ちくりとした気持ちは何だろう?

そういうセンサーを自分に使うと、
傷が浅いうちに癒せるし、
雑草がはびこる前に芽を摘める。
そういうのが前より上手になった。

人の心のしなやかさ、
回復力(レジリエンス)の可能性を、
私が一番見せてもらっている。

*
書き始めたのは4/26で、
続きを書いたのは4/29。
いろいろ追いついていない・・・
(とりあえす5/2にポスト。えいっ。)

あんころ時報_#2

*もしかしたら、時報でなく日誌になりそうな予感?

↑と書いていたのが、4/18で、今は4/24。そしてまさかの4/26。
毎日書きたいことがあるらしい、という前提で、書いていこうと思う。

結局、きっかり週次ペースに・・・
4/19は、本当に歩かない道の束の間の散歩で
幼馴染に会った。*地元ではない。不思議。

安定の自粛。
今日もエッセンシャルな皆さまに、
心からの敬意と感謝を送ります。

部屋が整う。
自分に何が必要か、良く分かる。

今日は雨だ。
春っぽい、水の緩んだ感じの雨。

同じ自粛でも、晴れの日と感じが違う。
何か、しょーがないなぁという気持ち、

憎らしいほどお天気!(クーーー・・・)
という気持ちもとうとうなくなり、
surrenderに自粛を受け入れている。

そういう意味では、
真に穏やかな引きこもりdayなのかもしれない。


翻って、4/26は恨めしいほどの晴天だ。
海を見てきた。私は水辺が好きだ。

波の音が聞こえた。水面のきらめきも含めて、
1/f、ゆらぎだ。

途中、都会の秘密のオアシスたちを巡回してきた。
対処療法ではあるが、コンクリートジャングル(古)に
生息するものの生きる術(猫の額の気に入りグリーン処)。

よくあるツツジの植え込み。
3−4匹のハチと1羽のアゲハ。

こんなにみんなbumbleしているのかぁと足を止める。
十分景色に馴染んでいたのか、アゲハが肩にやってくる。

ちょうちょ、ちょうちょ
なのはにとまれ
なのはにあいたら
さくらにとまれ
さくらのはなの はなからはなへ
とまれよ あそべ
あそべよ とまれ

巡回続行。ウグイスが鳴く。
ホーホケキョ。ホーホケキョ。

・・・え、良い声なんだね。
言ってることが複雑なんじゃなくて、
声がほんとに良く響くんだね!

あー、U嬢って、
そういうことだったんだね。

そして、きっと、今までもずっと
同じく良い響きだったろうに・・・
みんなの鳴く季節の東京は、十分に
響かせるクリアな空気ではなかった。

再度ツツジの植え込み。
小さなハチさんが忙しそうだ。

ぶん・ぶん・ぶん
はちがとぶ
お池の周りに
のばらがさいたよ
ぶん・ぶん・ぶん
はちがとぶ

のばらじゃないけど、
リアルに花から花へをしているのだね。
君たちが花弁に潜り込む姿を
私は生まれて初めて見たかもしれない。

海に辿り着く。
あー、潮の香りがするよ。
それに、波の音がするよ。

・・・何度も足を運んでいるけれど、
潮の香りを感じたのは初めてだ。
(しかもマ○ク越しにだよ!)

歌も、歌ったよ!
We are the world. We are the children.
We are the ones who make a brighter day
So let’s start giving.

空気の粒子全体がクリアで
自然物が響いている雰囲気

地球が圧倒的に伸び伸び
でもそれを体感して、不思議
縮こまっているはずの私も
何だか伸び伸びした気持ちになる

あぁ、これまでも
緩やかに気が付いていたけれど
ほんとうに私たちは一つで
繋がっているのだと思う

こっちは無邪気(馬鹿みたい)に伸び伸び
そちらに永久に我慢をお願いしていた
・・・よね。ほんと、寛容・寛大。


おじいちゃんのことを思い出した。
押入れの上の段から、寝ているおじいちゃんに
ジャンプしまくった!無邪気な3歳児!怖い!

・・・どう考えても、痛いよ!
でも、おじいちゃんもおばあちゃんも、
ほんとうに優しい人だったと思う。

翌日か、おばあちゃんが、教えてくれた。
「おじいちゃん、痛いって。
押入れからジャンプするのは止めてね。」

今、書きながらも、優しい人だなぁと思う。
「寝てる人にジャンプしたら、痛いでしょ!
何でそんなことしたの怒!」じゃなくて、

「それすると、痛いって。次からしないでね」って
優しい。私は、痛いなんて1mmも思わなくって、
純粋に自分の楽しいこと&大好きなおじいちゃんの、
合わせ技の無限ループでハッピーだったんだと思う。


怒られたことがないよ。
「それ止めてね」って大事で・大切な人に言われたら、
怒られなくたって「そっかーっ」て伝わるよね。

うーん。という訳で。
もう、そろそろ、私も
新しくなっていこうかな。

私が何かしたってしなくたって、
自然は変わらずそこにいて、優しい。

何をしたってしなくたって同じなら、
リモコンの動作を理解するのでなく、
リモコンが動いてTVが動作する前提で。

もう、そのことは考えなくて良くて、
前に前に、進め。
私は振り返るのが好き。牛っぽい。
でも、二者択一なら前を向け。

・・・人は慣性に引っ張られる。
でも、一歩づつ一歩づつ、
いつも目線も、歩みも、前へ。

あんころ時報_#1

変わりゆく街の記録

TGIF!
今宵はちょっぴり
フィーリングダウン!

エッセンシャルワークな皆さまに、
心からの感謝と敬意を表します。
ありがとうございます。

2ヶ月もかかって、やっとWfHの
リズムが出来てきた。自炊な日々。

え・・・2ヶ月もかかったの???
時間使いすぎじゃない???

私は、今回の一件(C)とあまり関係なく
在宅ワークが始まり、気付けば時勢が変わり、
そのまま家で仕事することが続いている。

2月中旬から3月初旬は、初めての在宅勤務(8割)が珍しくて、
近所にランチに行ったり、時間を調整して散歩をしたり、
ある程度、「いわゆるフツーの生活」をベースにして、
勤務場所が住まいになったという束の間の蜜月だった。
良い体験。

3月後半も、Cと関係なく、仕事を辞めるとか始めるとかで、
日常が団子状態で、気ぜわしかったこと以外に記憶がない。

フルリモートで仕事が始まるのと、世の中が一気に
オンライン化していくのとがほぼ同時で、不思議な気持ち。
やり過ぎて、休んで、消化して、何となく仕事と暮らしの
リズム(私はだいたい料理だけれど)ができてきた。

・・・フゥッ、と一呼吸。

オンラインで、毎日のように活動して、それはそれで
びっくりするほど一気に世界・繋がりが広がって・・・

日本全国の人とヨガや瞑想の時間を持った翌朝には、
アメリカは西海岸を中心にアクティビティを共にする。
いろんなお茶会や、オンラインの生放送、こんなことまで
できちゃうんだー・・・と。振り返って・・・何だろう、
すっごい人それぞれの特性ー特技・性質が、一気に輝いた
ワンシーンだったのかも知れない。(今も続いているけれど!)

イノベーター、リーダー、パイオニア。
掴んで先頭を切り拓いていく人の勢いや強さ、
圧倒的な行動力を、日々見せてもらっている。
有事を背景に、際立つね。フロントを押し上げてくれる。
先頭を走り、背中を見せて、引っ張ってくれる人。

私は家にいながらいろんな体験をさせていただきながら、
過活動weekを超えて、静かに消化している。
でも・・・特別な貢献がなかったとしても、自分の在り方や
役回りを前よりも意識的に捉えられることはプラスだ。

BTW
近所を散歩した。日が沈んでから・・・
こないだの坂道じゃない、もう一つの一本道を真っ直ぐに。

ちらほらある飲食店・・・開けていたり閉めていたり、
入っていたり。テイクアウトの貼紙やメニュー、
自粛のお知らせ、商店会掲示板へ大々的に広告・・・
変化への対応も様々。

お店の脇の駐車場で「テイクアウトの容器は確保したんだけど」と
話しまくっている店主らしき人や、お店の前に投げ売りのように
焼き菓子やらパスタ(乾麺)、小皿料理を並べているイタリアン。
ひっそり営業して常連さんらしき人が入っている喫茶店・・・。

「注文を受けてから作ります」小料理屋さんがあった。
唐揚げ500円。厚焼き卵300円。白飯200円。お味噌汁100円。
「おうちで焼肉セット」の貼紙も見た。2人前で1万2千円、2万円、3万円。
お弁当は6,000円の焼肉弁当から、押しは3,800円の盛り合わせ。びっくり!

珍しい手書きのお知らせに目が止まった。町の個人の焼き鳥屋さん。
「営業を自粛/決断/再開未定」。決断、という言葉はこういう時に使うんだ。
「1日も早く平穏な普通の生活に戻れることを心より願っております」だって。
泣けた。

お料理やさんの在り方も、いろいろだなぁと思う。
どんなメニューでするのか、は、とても興味深い。
場所代・仕入れ・人件費・・・私に専門的なことはわからないけれど、
普段、ほんとに特別な時に行くようなお店がテイクアウトを始める時に、
すごく日常に馴染む献立と価格帯で出していたりすると、尊いなぁと思う。

今回のことで、「憧れのお店のシェフ」から、「時代を引っ張る
すごいリーダー」だなぁと思う人が語っていたものを読んだ。
お料理って、何だろう。お料理するって、何だろう。

「食べるって、身体を作るんだよ」というメッセージを発信する人や、
「自分の食べるもの自分で作るって、楽しいよ」という発信もある。
親しみやすいレシピを教えてくれるお料理の人もたくさんいたりして、
同じ仕事をしていても、取り組み方は人それぞれだなぁと思う。

私は、自炊に勤しんでいるし、これが一番の楽しみで気分転換なので、
外に伺うことも配達をお願いすることも今はほとんどないけれど、
作って届けたい人、作る以外のことで自分の力を発揮している人、
役割分担で、みんなで工夫してお互いに支え合っている在り方が好き。

それにしても、ゴーストタウン感がすごい。お正月と完全に違う。

あぁ。お正月って。みんなお正月飾りと新春ポスターだからね。
今は、みんなひっそりひっそり何らかのお知らせを貼っているだけ。
気持ち新たにとか、節目とか、お祝い気分とか、そういう清々しさも
晴れやかさも、何もないよね。みんなただ、縮こまって引きこもっている。

ランナーとたくさんすれ違った。あとは犬の散歩の人。
スーパーも大行列。1列になって間隔を開けて並んでいるにしても、
お店の端まで(お惣菜〜甘いもの〜乳製品の壁一面)人がいた。

神様、今日は金曜日だよ。
街に人がいないし、お店も閉店。
静かなのは好きだけれど、
あまりに静かで、心細くなる。

あーーー。なるほどね。
街に暮らす暮らし方。私は、街全体で暮らしを設計しているよ。
飲んだり食べたりお茶したり。テイクアウト、公園、図書館、
プール、日向ぼっこ、景色を眺め、季節を感じ、人を感じ。
アート、カルチャー、エンタメ・・・賑やかな中にも、台風の目。
人と会ったり、会わなかったり。一緒にいたり、いなかったり。

でも、今は全然違う。「街全体で一つ」が叶わないなら、
何をしたら、一つ所で満たされた暮らしを実現できるのか。
それは、やっぱり、もう、自然の中だとしか言いようがない。
昔、友達が、実家の裏山を案内して、自分の好きな瞑想用の岩を
体験させてくれた。庭のかまどで白ごはんを炊いて、土地のものをいただく。
冗談みたいに大量のすだち。朝食には桃のジャムやブドウのコンポート。
都会の手土産が一気に色あせて見える、夢の暮らしだと思った。

究極の選択。20年前には答えられなかった。
一生ハイヒールを履かない人生と、一生ハイヒールしか履けない人生。
ハイヒールは好きすぎるけれど、2:8、いや1:9でも、気持ちは決まる。
トレンチコートか、アウトドアジャケットか、も同じ。2:8か、1:9か。

話は逸れた。
台所仕事にも自分の得意があるし、手仕事にも種類がある。
やってみたいことをして、できたいことができる人になる。
好きな人に会いたくて、好きな人に会いたいと思ってほしい。

とりあえず、お弁当と鉄火味噌。お味噌と梅干し。ジャムと草履。
納屋ラボ。季節仕事。縄も綯えて、刺し子もできるって、憧れだ。
・・・どうしよう!抑えきれない気持ち、とか、とか、とか。

あ、思ってた着地と違った。
夜道を歩いて、夜道が暗くて(当たり前)、あぁ寂しいと思った。
明ける前が一番暗いというけれど、きっと今何だなぁと思った。

明けない夜はもちろんなくて。
もし仮に、万一、今日感じた暗さが一番の暗さでなくても笑、
明けない夜がないことに変わりがないし。
もしもしもしも、その暗闇が想定よりも長く続いたとしても、
私たちはいつだって、その中に光を見つけることができるのだ。