過去からのもの・未来へのもの


この秋に読んだ本。
グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか

どんな本なのかは、この内容で、超ざっくりとカバーしていると思う。
僕らははたして、よき祖先であろうかー7世代先を思う、時の反乱者たちのための、やさしいガイドブック

日本語の副題は、わたしたちは「よき祖先」になれるかで、訳者あとがきには「本書の観念をどのように受け止め、各自の持ち場で具体的な行動へとつなげていくのか」と書いてある。
読んで以来、これを、けっこーものすごく考えている。悩む。

「過去から受け取っている恵みについて考える」ということもしてみた。
私の場合、「今ここに生かされているということ」に、よく言えば収斂され、悪く言えば思考停止してしまい、ちょっと苦しい気分でいた。

先日、日蓮宗の御会式(おえしき)*なるものを拝聴した。
*日蓮の忌日(10月13日)に営まれる,宗祖報恩のための法会
ご住職が、その役割を離れて、一人の人として、宗祖の日蓮聖人を、大きな影響を受けた先人、その恵みに賜っている先人、として捉えた時に、何を思うかというお話をされていた。

その話の冒頭に四恩(しおん)という言葉が紹介された。これは「父母の恩、国土の恩、衆生の恩、三宝(仏法)の恩」を指すと言う。あ、すっごい分かりやすいなぁ。何と言うか、3Cとか4Pみたいに、感謝する先を最大漏れなくまずはカバーできると思った。父母・国土・衆生・三宝/仏法・・・から何を思い描くは個人差があると思うので、ここでは一旦カット。

別の日に浄土真宗の報恩講(ほうおんこう)*なるものを拝聴した。
*親鸞聖人の御祥月命日(旧暦11月28日、新暦1月16日)に勤まる法要
お経を上げた後(これって、神道だと祝詞奏上とか言うと思うけれど、仏教だとなんて呼ぶんだろう?)、本の訳者による法話があった。

一つ「後の世代に『自由に選択できる』という場を残したい」という内容がメッセージされていた。最近の取り組みの一つとして、産業医ならぬ産業僧をしているという話題からの流れだったと思う。みんな、間違ってもいいんだよ。それがないと、選択できないじゃん。だって。

それに関連して、ご本の紹介があった。
考える親鸞 「私は間違っている」から始まる思想
曰く「自分だって、たまたま今、この状況だから間違いを犯さないでいるだけで、状況が違えば分からないじゃんね。ただそれだけのことじゃんね(如是我聞)」、首肯。本はまだ読んでいません。でも、誤解を恐れずに言うなら、そもそも間違いなんてあるのかなぁと思う。

もちろん、いのちのこととか、権利のこととか、何を関係各位とするのか・・・「一人の人として」という意思を前に出せば、いっくらだって言ってやりたいと思うことがある。

時代が変われば何が正しくて何が間違いかなんて、思うより簡単に変わってしまったりもするし、言ってみれば、先に上げた日蓮だって、当時の異端で、思想的に危ないとされて、遠流を喰らっている。だのに、何なら自分の流される航海の途中も、悪天候に祈りを捧げて一緒に船に乗っている人を鼓舞するリーダーだったし、流された先で冷や飯を食わされつつも熱く思いを語るその姿に絆されて、お寺を建立してしまった人までいる。

時のリーダーも、先の時代から見たら解釈次第でその功績への評価は、思うよりあっけなく裏返ったりする。
ましてや名もなき私のすったもんだなぞ、ノミのあくびくらい(何か、そんな感じの「どーでもいい」ことを表すフレーズ、なかったっけ?)、小さなことだよ。
名があろうとなかろうと、とある期間の一大事は、時間の軸を引き伸ばせば、その凸凹すら誤差レベルにモデラートになる。

先人について考える中で、再読した本もあった。
われ弱ければ
ここでの主人公はけっこー個性の強い人だなぁと思う。でも序盤の、四六時中ガンガン自己主張する訳でなく、沈思黙考ーーー見える部分は氷山の一角、的な在り方に心を寄せるし、中盤の心の重荷〜それに折り合いをつけ、引き受けていく過程には、人の弱さと人の強さを見せてもらうような気がする。終盤については、ここでは、いいかな。もちろん、たくさんの学び。

話は移るけれど、初めは、聞いているこちらがヒヤヒヤするような、ドラスティックなことを何てことない顔でぶっ込む人だなぁと思って見ていた人がいて、時を重ねて、気がついた時には、その言動を刺激と感じなくなっている(平常)としたら、それってつまり、染まっているということで、自分のアンコンフォートがコンフォートになったということで、自分が拡張したということなのかもね。あるいは、自分が開いたとも呼べるのかも。

何でしょう、自分のことは自分では分からないことが多いけれど、自分が何となく「ん?」と感じるものは、それはそうなのだと思う。感じるものがなくてもよくて、感じない自分に出会っただけのこと。感じることがよくて感じないことがよくないでもなく、それすら縁起の中にのみ存在するもの。

私の拡張。私たちの拡張。溶け合ってゆくもの。

私が仏教にご縁をいただいたのはちょうど3年前だと思う。それすら発端はキリスト教なのだから何の因果か因縁か、不思議だなぁと思うし、キリスト教があっての他宗教との出会いだから自分のの中に呼び水があったなぁと思うし、他宗教ーというか信仰と呼ぶようなものを通じて、新たにキリスト教ーの信仰のようなものに出会わせてもらっているという気持ちにもなる。

いろんなストーリーに触れるに付け、けっこうみんな一つのことを、それぞれの視点、それぞれの言葉、それぞれの思いで、語っているのかもしれないなぁ・・・と頭の中で翻訳しながら、そこに結ばれる像を瞼の裏に描く日々。

書くのが下手!!!
私は、今生かされていることを、最大の恵みと思う。
先人の思い、未来世代の思い、その間にあって、それらを代表して使役できる存在だと思うから、双方の声に耳を傾けたいと思います。

これは、先人&未来の世代は時間軸の話だけれど、実際はCallingー神様の呼び声と言うものもあると思っている。別にそれって、特別な人の特別な時にあるものだとは思わない。実際どんな風に声掛けがあるのかはさておき笑。私たちのすべきは、その声に耳を傾けAccept、あるいはSurrenderするだけ。Response、あるいはResonanceする器/Mediumであるだけ。必要なものは、全てGift備えられている、あるいはFeed与えられている、と思います。すべてのものはメッセージ。

したいことすぐ忘れるから、取り敢えず書くと、私が組むテーマは「スネ解消」です。
最初の四恩と同じように、「スネ」に何を含めるかはここでは割愛。そして、スネにどうアプローチしようと考えているのかは・・・あらためて。
あと、重要な視点は私たちは、みんな何かのマイノリティーだということだと思います。

しようと思ってしなかったこと・・・理由は、照れとか恥ずかしいとか、傷付きたくないとか面倒に巻き込まれたくないとか、あとはもちろん拗ねとか、単に怠惰とか(これも、私はけっこーやりがち)いろいろあると思うけど・・・何はともあれ、しなかったら後悔だと思うので、一つでも良いと思うことをして、地味に数を打っていきたいと思います。そのうち、一つ一つのハードルが小さくなって、できることが拡張しているのでしょう。でも、志ーは大仰だけれど、目をやる先、行動の指針を立てることは大切・・・ということは、最近、先人にリマインドされた笑。私に受容体としての準備が整ったということなのでしょう。

愚者は経験に、賢者は歴史に・・・ま・な・ぶ!
私は全然、愚で構わないのだけれど爆、というか、体当たりでこの世界を感じたい派なので、これまでこれでよかった!

だけど、時間には限りがあるし、自分の考えていたこととか、悩んでいたことって、こんな風に語られていたんだ!と分かると、早かったり(なーんだ、早く教えてよ!)、やっぱりハクがついたり(ドヤッ!泣く子も黙る・・・)ー伝えたいことが伝わりやすいなぁということが歴然とあると思うので、先人の、あるいは同時代を生きるたくさんの方の学び「賢」を学んで、「誰々さんは、こー言っています」というのをもーちょっと増やして、人の口や虎の威を借りながら、ひっそり前進していけるように(匍匐前進でもよし・・・あ、言うと叶っちゃうから、しばらくそれで、あとは大手を振っていけるように)、努めたいと思います。

「発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。 新しい目で見ることなのだ。(マルセル・プルースト)」だって。

SALAAM MOUSSON SALAAM AFRIQUE
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